お盆の朝、さくらは帰省の支度をしながら庭をひと回りした。
三角ホーで削った地面から、メヒシバがまた芽を出していた。二ヶ月前なら「雑草がまた生えてる」としか思わなかっただろう。今は、そいつが何をしようとしているかがわかる。
庭の隅では、ネジバナがピンクの螺旋を立てて、可愛さを主張していた。これは残しておくと決めた草だ。
その先に、ギシギシが一株。背の高い花穂を突き出している。……早く抜いてしまおうと思いつつ、実はまだそのままだ。
荷物をまとめて、玄関の鍵を閉める。バスの時間まで少しある。縁側から庭を見た。留守にするのは四日だけだ。それでも、帰ってきたらどのくらい草が伸びているか、もう想像がつく。
実家は街中の、駅から徒歩十分ほどのマンションだった。
玄関を開けると、母が「あら、焼けたわね」と言った。
「毎日外にいるから」
リビングに通されると、伯母がもう来ていた。テーブルの上に仏壇用の果物と菓子折りが並んでいる。お盆だから、伯母が来るのは毎年のことだ。
「さくらちゃん、元気そうじゃない」
伯母は笑ったが、目は値踏みするように鋭かった。この人は昔からそうだ。心配しているのは本当だが、現実的な判断を先に口にする人でもある。
「で、どうなの。やっていけてるの?」
来た。さくらは覚悟していた。伯母はあの家の処分を主導していた人だ。「一年やってみて、無理だったら考え直しなさい」——その条件を出したのも伯母だった。
「やっていけてる……と思います」
「思います、って」
「庭がすごいことになってて、そっちにかかりきりで」
「だからあのとき言ったじゃない。庭なんか一人で手入れできるわけないって」
母がお茶を出しながら、伯母をたしなめるように言った。
「お姉ちゃん、まだ二ヶ月よ」
「二ヶ月経っても庭が片付かないなら、それが答えじゃないの」
さくらは少し黙ってから、言った。
「片付かないんじゃなくて、片付け方がわかってきたところ、かな」
「どういうこと?」
「……雑草の名前がわかるようになったんです。まだ少しだけだけど」
伯母はきょとんとした。
「名前?」
「雑草って、いろいろな種類があってそれぞれ対処が全然違うんです。根っこの仕組みも、生える場所も」
「名前がわかったところで、雑草は減るの?」
「減りますよ、少しずつだけど。。。。名前がわかって、それから……やみくも抜かなくて、やり方があるの。」
伯母は腑に落ちない顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。
夕食の後、仏壇に手を合わせた。祖父の写真は穏やかな顔をしている。
母が台所を片付けながら、ぽつりと言った。
「お父さんもね、庭の話はよくしてたのよ。でも花や野菜だけじゃなくて、雑草も。雑草にもいろいろあって面白いんだって、そんなこと言う人、お父さんくらいだったから覚えてる」
「おじいちゃんが?」
「お母さん——あなたのおばあちゃんが元気だった頃は、二人で朝から庭に出てたみたい。お母さんが亡くなってからは、一人でやってたけど」
さくらは仏壇の横に座ったまま、母の背中を見ていた。
「足が悪くなってからも、やめなかったのよ。私が『もう無理しないで』って言っても、『庭は待ってくれない』って」
——庭は待ってくれない。
その言葉が、妙に刺さった。メヒシバは一週間で十センチ伸びる。草は、人間の都合なんか知らない。祖父はそれを何十年も知っていたのだ。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「私が『あの家に住む』って言ったとき、お母さんはどう思った?」
母は手を止めて、少し考えた。
「……正直、びっくりした。あなた、おじいちゃんの家のこと、もう忘れてると思ってたから」
「忘れてた。ほとんど」
「でしょう? だから余計にびっくりしたの。なんで急にって」
「……自分でもよくわからない。ただ、無くしたくなかった」
母は小さく笑った。
「お姉ちゃんはね、心配してるのよ。あなたが東京で元気なかったの、知ってたから」
さくらはお茶を飲んだ。伯母がそこまで見ていたとは思わなかった。
「逃げたんじゃないかって。東京がしんどくて、たまたまおじいちゃんの家があったから、飛びついたんじゃないかって」
「……半分くらいは当たってるかも」
「半分は?」
「半分は、本当に、まだ残して欲しかったから」
母は何も言わなかった。食器を拭く音だけが、しばらく続いた。
翌日の昼、伯母がアルバムを持ってきた。
「これ、あの家の片付けのとき出てきたんだけど、捨てるのも何だから取っておいたの」
古いアルバムの中に、庭の写真が何枚かあった。低い生垣に囲まれた前庭。丸く刈り込まれたドウダンツツジ。足元には地面を覆う低い緑がびっしりと広がっている。写真の隅に、麦わら帽子を被った二人の背中が小さく写っていた。
「おじいちゃんと、おばあちゃんだ」
「そうそう。二人でいっつも庭にいたわよね。子供の頃、遊びに行くと」
伯母は写真を覗き込みながら言った。
「この庭、きれいだったのよね、昔は。お父さんが元気な頃は」
さくらは写真の足元の緑をじっと見ていた。もちろんメヒシバではない。もっと低くて、地面にぴったり張りついている。
「伯母さん、この緑ってどんな種類かわかります?」
「さあ……芝生じゃないの?」
「芝生とは違う気がする。もっと密で、葉の形が……」
伯母はあきれたように笑った。
「あなた、向こうで暮らすようになって、なんだか生き生きしてるわね」
「えーっと……そうですかね。」
「いいわよ。おじいちゃんと同じなんだから」
伯母はそう言って、お茶をすすった。
お盆の最終日、さくらは実家を出た。
玄関で伯母が言った。
「まあ、顔色はよくなったわね。それだけは認める」
「ありがとうございます」
「感謝はいいから、冬になって『やっぱり無理』って言わないでよ。あの家の暖房、ぜんぜん効かないんだから」
母が紙袋を持たせてくれた。中には祖父のアルバムが入っていた。
「持って行きなさい。あの家にあったほうがいいでしょう」
電車の窓から、街並みが流れていく。都心のビルが減って、住宅が低くなって、田んぼが見え始める。この景色にも、少し慣れた。
伯母の言葉を思い出していた。
——逃げたんじゃないかって。
半分は当たっている。東京がしんどかった。毎日が限界だった。祖父の家がなければ、どこか別の場所に逃げていたかもしれない。
でも、あの庭は逃げ場所にはならなかった。移住初日に見た「緑の壁」が、それを教えてくれた。逃げた先で待っていたのは、うっそうと茂った雑草たちだった。
逃げ場所のつもりで来た家で、さくらは走り回っていた。草を抜いて、名前を覚えて、道具の使い方を習って。都会にいたときより、ずっと汗をかいている。
「……逃げたっていうより、追いかけられてるんだよなあ。草に」
車窓の向こうに、手入れのされていない空き地を目で追っていた。
夕方になって、ようやく家に辿り着いた。
家に入って荷物をおろすと、さくらはその足で庭に出た。新しい芽があちこちに出ている。
でも、慌てなかった。どこから手をつけるか、もうわかっている。
アルバムをリビングのテーブルに置いた。明日の朝、庭を片付けてから、ゆっくり見よう。
縁側に座って、庭を眺めた。
風が吹いた。八月の半ばなのに、少しだけ涼しい風だった。夕方の影が長くなっている。気づけば、陽が傾くのが早くなった。
庭の隅で、ツクツクボウシが鳴いていた。